冬至の前。夜が一番長い季節。
ちょっと気分が落ち込み気味だったけれど。
季節のせいもあるのかな。
落ち込みの原因にはいくつかの出来事があって。
試験や試合の結果が思うような形では出なかったり、
微妙な距離の人とうまく交われなかったり、
自分も家族も体調を崩したり。
そんなことがあって、ちょっと気持ちが下を向いていた。
裏を返せば、
試験でいい点が取れて、試合で活躍して良い成績が収められて、
誰とでも仲良くなれて、信頼関係が築けて、
自分も家族も健康でバリバリ動ける。
自分はそういうのが理想だと思っているということ。
こうやって書いてみると、
自分でコントロールできることよりも、周囲の人に左右されることの方が多いことに気づく。
自分がやれば達成できる目標であれば自分の責任だけど、
他人をコントロールして理想の結果を手に入れるなんてことはできないのだから、
もともと無理な設定だったのではないかと思う。
一方で、自分は自分の人生に期待しているんだな、とも思う。
それは悪いことではないと思うし、生きるモチベーションでもあるわけだけど。
ただ、その期待値が適正かどうかは考えてみる必要があるかもしれない。
例えば、スポーツの試合で自分やチームメイトが100%以上のパフォーマンスができて、
自分より練習していたり経験が長い他のチームの人達のパフォーマンスが50%以下であるということがいつも起きるということは、ありえないわけで。
もちろん、100回に一回くらいはそういうことがラッキーパンチで訪れるかもしれない。
だけど、それを自分たちの実力だったのか、冷静に考えてみる必要があると思う。
また、人づきあいにおいても、自分が疲れているときは楽しめないときも盛り上がりについていけないこともあるし、相手もそういうことがあるだろう。
いつも自分にも相手にも優しく、サービス精神を発揮する余裕を持てたらいいけれど、いつもそういうコンディションを保てるかといえば、正直なところ難しい。
こうやって考えていくと、
自分の掲げていた理想は、自分以外の他人が定めた「成功」という亡霊に取りつかれているだけなのかもしれない。
ふとしたことでつまづいて、くよくよと色々考えてしまうけれど。
上手くいかなくて落ち込んだときは、自分や周囲に抱いていた過剰な「期待」に気づくチャンスだともいえる。
そして、過剰な「期待」は少しずつ手放す。
手放した「期待」はどこに行くのだろう。
深く海に沈むのか、宇宙空間に頬りだされてブラックホールに吸い込まれるのか。
いや、手放しても、きっとまた戻ってくるだろう。
それがこの「期待」の厄介なところ。
「期待」とは、「欲」と同義語なのかもしれない。
人間が生きる限り、持っているもの。
だったら、上手に付き合っていくしかないのだろう。
期待通りになることもあれば、ならないこともある。
それが人生。
なんか年の瀬に、壮大な話になってしまった。
今年の大晦日は煩悩を一〇八個書き出してみようか。
そんなにあるのか、あるいはそれ以上あるのか。