阪神大震災から25年。
1995年1月17日。
私は被災地から離れた雪国に住む受験生だった。
その半月後、大学受験で上京する。
受験会場で「被災地の方は受験料免除がありますので申し出てください」と係の人が言っていたことを今でも思い出す。
大学受験という人生の一大イベントの最中だったので、リアルタイムで被災報道を見ていた記憶はない。
ただ、日々、死者の数が増えていっていたことだけは覚えている。
死者6434人(日経新聞2020年1月17日付より)。
この数がどんな意味を持つのか、当時の自分には全く考えがなかった。考えもしていなかった。
いまなら、マンモス小学校6校分、とか、100人規模の会社が65社分、とか、例えも思いつくけれど。。。
この少子化、人口減少の時代、マンモス小学生が6校も一気になくなったら…考えるだけで恐ろしい。
阪神大震災の9年半後、私は東京で働いていたにもかかわらず、中越地震の発生時に現地で震度6を経験することになった。
新幹線の中で被災したときの揺れと恐怖。
余震におびえながら一晩過ごしたこと。
電気ガス水道といった生活インフラが止まる心細さ。
晩秋の夕暮れ時に真っ暗な住宅街を見ながら、「戦後みたい」と感じた強烈な喪失感。
そんなセンセーショナルな体験も、一日、一週間、ひと月、一年と日を追うごとに記憶の片隅に追いやられる。
自分の人生にとって大きなインパクトを与えた出来事だったはずなのに。
(この後、人生何が起こるかわからないと、初めての転職を試み、その後、様々な理由で職を転々とすることにもなるのだけど。思い返せば、この被災経験は別の意味合いもあったと当時は感じていた)
今年の報道でも繰り返し言われていたけれど、阪神大震災から25年が経過して、人間の記憶の風化は避けられない。
それでも、折を見て、若い世代に語り継ぐこと、同世代と語り合うことが必要なんだと思う。
まずは自分が子供や夫と話してみることがスタートかもしれない。
お母さんがまだ学生だったときにこんなことがあってね、と。