朝井リョウさんの『死にがいを求めて生きているの』を読んだ。
心がザワザワした。
沼の底に溜まったものを掻き出された、そんな読後感。
リーダーシップをとるのが好き。
何かに熱中しているのが好き。
注目を浴びるのが好き。
輪の中心にいたい。
自分は他の人とは違って特別な何かを成し遂げた存在になりたい。
認められたい。
堀北雄介の生きるモチベーションを表すと、こんな感じ。
作中ではだんだんイタイ人になっていく雄介(と私は感じた)。
だけど、こう並べてみると、人間、誰でも持っている欲求なのではないかと思う。
その欲求を正直に表現するかどうかが別なだけで。
作中には、「手段」と「目的」があべこべになっている人物が何人も登場する。
本来は目的(=課題の解決など)があって、手段(=行動)があるべきなのに、行動することが目的になっている。
つまり、手段が目的化しているという事例だ。
物語の中で、その最たる人物として雄介がいる。
小さいころから運動神経がよくて、中学高校では成績もよくて、北大に行って。
だけど、敷かれたレールの先で、何に情熱をぶつけていいかわからなくなって、大学も中退して…。
イタイやつ。
頭わりいな。
迷惑なんだよ。
そんな風に思われながら、もがいている雄介。
手に変え品を変え、行動を止めない雄介。
確かに身近にいたら迷惑な存在かもしれない。
だけど、自分の中にも、こういう部分あるし、そういうふうになる可能性もある。
実感はないけれど、無意識で同じことをやっているかもしれない。
だから、心がザワザワした。
超える対象、倒すべき対象=敵を作ることで、その敵を倒すことを目的とし、夢中になる。
ゲームの世界ではよくある設定。
現実の理不尽なことに立ち向かうときにも、「ゲーム感覚で」「仮想敵」を作ることもある。
ゲームを攻略する喜び。
遊びと現実の境界線。
読みながら、私はわからなくなった。
フィクションでありながら、リアルにありそうな怖さ。
気づけば、自分の隣に堕ちそうな、吸い込まれそうな大きな穴がぱっくり開いていそうな。
一見、雄介と対照的な存在として描かれている幼馴染、南水智也。
智也にも実は「敵」がいて。
その敵を倒すために、静かに一歩一歩進んできた智也。
雄介と智也の何が違うのか。
行動は違えど、実はやっていることは同じなのではないか。
そんな方向で話はエンディングに向かっていく。
物語の先の、雄介と智也の関係を想像してみる。
そして、雄介の20年後、中年になった姿を想像してみる。
自信を持って、誇りを持って生きていてほしい。
願わくば、雄介を抱きしめてくれる、雄介が守ってあげたいと思う、そんな人(達)が近くにいてほしい。
どんなヒーローも、孤独の中では生きられないと思うから。