この2週間、フジテレビで『鬼滅の刃』を放送していたので子供たちと一緒に観た。
去年はまだよくわからなかった世界観を、少し理解できた気がする。
この作品の中で、主人公の炭治郎は、「鬼=一方的な悪」ではなく、「元は同じ人間なんだ」と言っている。
最終的には、鬼のボスである鬼舞辻無惨が悪いという話になるのだけど、無惨は人間の心や体の弱さに近づき、人間を鬼にする。
人間の弱い点や劣等感に付け込んで、鬼となって人間を食らうことを正当化する(させる)。
作品の中で、鬼たちも人間のときの記憶があり、葛藤を抱えて最期を迎える姿が描かれている。
弱さにつけこんで近寄ってくる鬼。。。
いま私がせっせと片づけているのも、心の中の鬼なのかもしれない。
かつて惑わされていた鬼の残骸。
それを粛々と片付けている。
昨日、ネットで見つけた記事。
私もここに出てくる女性のように、「家を片付けて、心地よい空間にしたい」ということだったのかなと、いまになって思う。
それなのに、「お金を出せば片付けのプロに片付けてもらえる」と考えて「お金を稼がなきゃ」と思い大枚はたいて高額なセミナーに参加してみたり、
「夫は家の中に余計なものを持ち込むし、キレイにしてくれない」と考え、「自分が稼げるようになったら離婚だ!」と考えて夫をないがしろにしたり。
私にとっての「鬼」は困りごとや劣等感はお金を払えば簡単に解決できるという思い込みだったのかな、と思う。
いまも、過去の自分に何が正解かというアドバイスはできないけれど、
・知識だけでは解決できない。
・手や体を動かすことで解決策は見えてくる。
ということは言ってあげたい。
そして、
・目の前にいる人に感謝する
・目の前にあるモノと向き合う
ということも。
なかなかできないし、いまも胸を張ってできるとはいえないのだけどね。
だけど、モノとの向き合い方は上手くなったかな。
もう1年ちょっとやってるから、やれば上手くできるようになるものだね。
私の今回の教科書(というか伴走者)は、Youtubeのやましたひでこさんの断捨離(R)チャンネルと、週末ビフォーアフター。
更新される動画を見ながら、片付けのモチベーションを高めて手を動かしている。
お金をかけて上手くいく場合と、お金をかけなくても上手くいく場合とある。
お金をかければ元をとらなきゃと頑張るけれど、それが自分に合ったやり方かどうかは別だし、お金をかけることで自分に合わないやり方に固執してしまうこともあるのではないかと思う。
モノと向き合いながら、自分とも対話している。
モノを手放すときの葛藤。
それは鬼退治に似ているのかもしれない。
そんなことを思った3連休明けの朝。