下の子が小学生になって3か月目。
ほんの2か月ちょっと前までは朝夕の送り迎えをしていたというのに。
上の子のときから数えると11年間も朝夕の送り迎えをしていたはずなのに。
そんな時間があっさりと終わって、もう送り迎えがないことが自分の日常になっている。
時間ができたことの喜びと、一抹のさみしさ。
朝出かけるまでの準備は戦争のようだったけれど、夕方、子どもと手をつないでお話ししながら帰る時間はかけがえのないものだった気がする。
もちろん、毎回笑顔でいられたわけではない。
そんなご機嫌斜めなところをお互いにみせられるのも親子ならではというか。
憧れの母親にはなれなくても、働きながら一生懸命子育てする背中は見せられたかな、とは思う。
上の子は気づけは小学校の最高学年。
大学卒業(22歳)までが子育てだとすると、もう折り返しに入っている。
そう考えると、毎日がかけがえのない時間。
思春期特有の口の悪さには閉口するし、正直、まともに取り合っていたらしんどい。
それを時に受け止め、時にうまく流しながら見守るのが親の務めというのだろうか。
子どもは常に成長している。
自分も、保育園児の親から、小学生の親、そして、中学生の親へと立場は変わっていく。
保育園時代の慌ただしさがだんだん消えて。
「自分がいなければこの子は生きていけない」って必死だったあの頃。
よく乗り切ってこれたなあと我ながら思う。
自分だけが頑張ってきた、という気持ちもあるし、よくよく考えれば、直接的、間接的にいろんな手助けを受けてこれた。
保育園、職場、夫、親族、友人、自治体。
時に手を貸し、耳を貸してもらってきた。
自分が頑張っていたからだとも思うし、子どもも頑張ったと思う。
いつかは、子離れしなければいけない日が来る。
喜びと、さみしさ。
子育てが終わるときに待っているのは達成感だろうか。喪失感だろうか。
たぶん、両方。
その日まで、長いような短いような日々を楽しもう。
こうやって、感傷的な気持ちに浸れるもの、時間と心の余裕があるからだともいえる。
ちゃんと、その時の感情に向き合って、言葉にできる。思考を整理できる。
嵐の中にいたときは、そんなこともできなかったもんね。
ちゃんと環境も整えられたね。
そのうちまた、心も体も家もグチャグチャになる日も来るのだろうけれど。
いまから起こってもいないことを心配しても仕方ないし、心にも悪いし、時間の無駄。
その時はその時でやっていくしかないのだから。