Tae’s NOTE

母&妻&会社員。40年も生きると人生で演じる役割&抱えること・ものが増え、心のモヤモヤも増える。思考を前向きに整理するための My Noteです。

コロナ時代の仕事論:楠木建氏(日経新聞)からのだらだら備忘メモ

またまた日経新聞ネタになるのだけど…

コロナウィルスの影響力が増してから、テレビやネットで様々な情報が飛び交う中、理路整然と情報が整理されているのは、新聞だけではないだろうか。

 

さきほどの投稿で無理やり書き出した私なりの「孤立を防ぐ方法」の一つ、「7.たまっていた新聞を片付ける。」に関連し。

 

tae-s-note.hatenablog.com

 

先週、2020年4月28日、29日、5月1日の日経新聞朝刊に掲載されていた『コロナ時代の仕事論』(一橋大学教授・楠木建氏、上・中・下)を読んで、激しく共感できる言葉が多かったので、

備忘として残しておこうと思う。

(以下、「・~」は引用)

 

・コントロールできないものをコントロールする。ここに不幸の始まりがある。コントロールできないことについてはジタバタしないに限る。世の中には「どうしようもないこと」というのがある。

→上(4/28掲載)のはじまりがこれ。

 感情の起伏が激しかった2-3年前、私はよく夫から「あんたは人をコントロールしたがるよね」と言われていたので、いきなり頭をハンマーでたたかれたような衝撃を受ける。今後も肝に銘じておきたいお言葉…。

 

・今日のわれわれは人類史上空前の「無痛社会」に生きている。昔と比べて世の中の「理不尽」は明らかに少なくなっている。(中略)いつの間にか、「何でもかんでもコントロールできる」と思い上がっていたのかもしれない。世の中はコントロールできることばかりではない。コロナ騒動はこの当たり前のことを再認識し、生き方を内省する好機だと思う。

→同じく、上より。

 これは、自分の反省が半分。でも、夫がいうように私が家族をコントロールしたがっていたとしたら、それは、なんでも予定通りこなさないと許されない、当時の職場の圧力的なものからきていたのかな、とも思う。

 子供が小さいうちは、子どもの健康なんてコントロールできないし、無理がたたって自分(母親)自身が倒れてしまうこともある。

 そういうことを知らない、または、見て見ぬふりをすることができる、強い立場の人間からのハラスメントだったのかな。

 

・仕事にはコントロールできることとできないことがあり、コントロールできないことを無理やりコントロールしようとするとロクなことにならない。

→中(4/29掲載)のつかみはこれ。本当に心に突き刺さる…。

 続いて、2つのポイント①何をどこまでコントロールできると考えるか②その人に固有の仕事の哲学について述べられる。

 

・僕の仕事哲学を一言でいうと「絶対悲観主義」。(中略)何事においても「ま、うまくいかないだろうな…(でも、ちょっとやってみるか)」と構えておく。こういうマインドセットを絶対悲観主義と呼んでいる。

→中より。

 自分の中のハードルを下げるということかな。

 

・ベルナール・フォントネル(フランスの思想家)は(中略)「幸福のもっとも大きな障害は、過大な幸福を期待することである」。(中略)自分の思い通りにならないのが当たり前で、思い通りになることがあったとしたらそれは例外だ。

 

→中より。

 私の20年余りの社会人人生の中で、3度ほど、やることなすこと自分の意見や提案が通り過ぎて怖いと思ったことがある。

 ちょっと天狗になって、そのあと地獄を見ることになるのだが、地獄を見て、やっぱりあれは特別な事情だったのだと学習することになる。

 

・いくら経験を重ねても勝率はたいして上がらない。それでも負け方は確実にうまくなっていく。年季の入った人には負け方が実にキレイな人がいる。(中略)「負け戦、ニヤリと笑って受け止める」。

→中より。

 これも、年を重ねてわかるようになってきた気がする。

 負けるが勝ち、というか。若い人に気持ちよく道を譲ることができるようになりたいなと感じた。

 

・絶対悲観主義に立てばリスクから解放される。主観的にはリスクがないからフルスイングできる。で、だいたい空振りする。それでも、バットを振らないことには始まらない。

→中より。

 これも、激しく共感した。バットを振らないと何も始まらないのだ。自分の仕事は自分で作るというか。たとえサラリーマンだとしても40過ぎたら自分で仕事を作ってナンボ、というところがあるように思う(前にジェーン・スーさんのコラムで同じことが書かれてました)。

 

・この10年ほどでよく使われるようになったフレーズに「イラッとする」がある。今の時代を悪い意味で象徴する言葉だ。何を象徴しているかというと、「大人の幼児化」。

 

・幼児性の中身には以下の3つがある。1つめは世の中に対する基本的な構えの問題だ、子どもは身の回りのことがすべて自分の思い通りになるという前提で生きる。だが仕事で大切なのは「世の中は自分の思い通りにならない」という前提だ。

・本来は独立した個人の「好き嫌い」の問題を「良しあし」にすり替えてわあわあ言う。これが幼児性の2つ目だ。「好き嫌い」にすぎないことを勝手に良しあしの問題に翻訳するから、妙な批判や意見を言いたくなる。

・第3に大人の子どもは他人のことに関心を持ちすぎる。その人に関心があるというより、自分の不満や不足感の埋め合わせという面が大きいのではないか。

 (中略)

 比較してばかりの人は嫉妬にさいなまれる。子どもが「イラっとする」のも嫉妬であることが少なくない。

→すべて下より。

 「自分が子供のころの大人ってもっと大人だったような。でも、こんなものなのかな」と勝手に思っていたけれど、やっぱり幼児化してたのか、と客観的視点を与えてもらった。 

 個人的には、2つめの「好き嫌い」を良しあしの問題とすり替えてチクチク攻撃してくる同僚に手を焼いてきましたので原因がわかってスッキリしましたが。。。

 

・人はそれぞれ自分の価値基準で生きている。人は人、自分は自分。ほとんどの場合、比較には意味がない。仕事ができる人ほど出来合いの物差しで他人と自分を比較しない。(中略)自分のダメなところ弱いところを自覚し、自分の強みはあくまでも条件つきで全面的に優れているわけではないことをわきまえている。

・世の中にはいろいろな得手不得手の人がいる。そうした人々の相互補完的な関係が仕事を成り立たせている。(中略)他人を気にせず自分と比べず、いいときも悪いときも自らの仕事と生活にきちんと向き合う。それが大人というものだ。

→下より(最後の二段落をほとんど引用してしまいました)。

 こんなにストンと腹落ちする文章、素晴らしい。私だったら、もっと説教臭く、クドクド書いちゃうし、言っちゃう。

 客観的かつストレートに、簡潔な表現で主張が書かれている。

 こんな文章書けたらいいな。

 

以上、だらだらと気づき、感想、回想など。

 

楠木建さんの著書も読んでみたいな。

孤立を防ぐにはどうしたらいいか?

本日(2020年5月4日)日経新聞朝刊 医療・健康面「こころの健康学」に気になる一文があった。

 

『孤立すると、情報に振り回されやすくなるので注意しなくてはならない。』

 

明日のこどもの日を前に、子供のこころの健康を危惧する大人へのメッセージという形で始まっているが、大人にも当てはまるところが大きいと感じた。

 

本文の中で、筆者:大野裕氏(認知行動療法研修開発センター)は、

心理的に孤立すると、不安になったり落ち込んだりしやすくなる。米医学会の雑誌に(中略)「ソーシャルディスタンス(社会的距離)」が強調されているが、その表現を「身体的距離」と言い換えた方がよいのではないかと書かれている論文が目に入った。

 身体的距離は十分にとりながら、人と人とのつながりを意味する社会的距離が広がらないようにすることが大事だという内容だ。』

と紹介している。

 

私の勤務先では、在宅勤務時は、会社で準備したツールを用いて、特にチーム内のコミュニケーションをとること、と人事部から案内が出ている。

ZoomやSNSの通話機能を使ったプライベートな会の開催もしかり。

私の参加している「多言語で遊ぼう」の活動も、対面で集まることを非常に重視していたが、今回の局面であっさりと方向を転換し、オンライン活動に舵をきった。

 

自宅でオンラインの会に参加していると、子どもも興味があって寄ってくる。出たり入ったり、自由なのもうれしい。

ただ、夫だけはもともと一緒に参加したことがないこともあり、興味がない様子。

また、在宅勤務や自宅から近くのオフィスでの勤務に抵抗し、片道1時間以上かけて電車通勤を続けている夫の姿に、大丈夫か?と不安になる。

 

一方で、在宅勤務になって夫婦間の喧嘩に発展したというニュースを聞くと、「亭主元気で留守がいい」というバブル期のCMのセリフを思い出す。

サラリーマン男性の心のよりどころは会社であり、自分の心の孤立を防ぐためにオフィスに通い続けているのだろうか。

 

出社を続ける夫には、頼むから、感染だけはしないで戻ってきてくれ、と思っているが、家族を危険にさらしているという認識を強く持ってほしいと思う。

この連休中、嫌な顔せずにステイホームしているだけでもありがたいと思うべきか。。。

 

と、話はそれてしまったが、大野氏は本コラムの最後に

『(心理的)負担を減らすためには、子どもに限らず、大人も情報に接する時間を制限する必要がある。一方で、国立成育医療研究センターのホームページ「新型コロナウィルスと子どものストレスについて」など信頼できる機関の情報を活用してほしい』と記している。

 

くしくも、本日の一面には「新型コロナ、止まらぬ情報汚染」の記事が掲載されていたが、何が正しい情報か、取捨選択できるリテラシーが各自に求められていると感じた。

 

と、筆を置こうとして、タイトルの「孤立を防ぐにはどうしたらいいか?」の答えは?と突っ込んでいる自分がいるので無理やり10こ書き出してみる。

(あくまで私なりの)

 

1.情報の根拠を確かめようとする客観的視点を持ち続ける

2.よく食べて、よく寝る

3.家族との時間をエンジョイする。

4.家族と楽しみを共有する。 (←3と一緒か?)

5.よく笑う。

6.家の掃除をする。

7.たまっていた新聞を片付ける。

8.ブログを書く

9.メルカリとジモティーに不用品を出す

10.シーツやまくらカバーを新調する(ネットで購入)

 

以上。

5つめまではなんとか出せたけど…6.以降は連休の残り3日の課題のようになってしまった。

 

※『 』は引用部分。

「書き出す」効用

今日で4月も終わり。

外はいい天気で、気持ちよいのに、フラフラと外出できないのが残念。

この二年、恒例だったGWの金華山黄金山神社詣も夏休み以降にお預け。

今年が3年連続の最後の年(※)だったから、早くCompleteしたい気持ちもあるけど、

2020年末までに行けばいいのだから、まだ半年以上あるから大丈夫、と陽転。

そして、コロナウィルス収束後の楽しみとして、手帳の8月のページに「金華山詣@夏休み」と書き込む。

 

この2か月ほど、在宅勤務の回数が増えたので、PCに向かって刹那的に仕事をやっつける感じになっていた。

また、家にいる時間が増えたからいろんなところが気になっているものの、あれやらなきゃ、これがしたい、でもすぐにできない、というのが小さなストレスになっていた。

 

昨日の朝、一日でやること&やりたいことを全部書き出してみた。

「洗濯」でも、洗濯機を回す、洗濯ものをたたむ、など細分化し。

昼食や夕食も献立だけでなく、お肉を解凍する、ゆで卵を作っておくなどの下準備も書き出し。

ずっと気になっていたベランダ掃除も、掃く、拭くと分けて書いた。

書き出すと「次なにやるんだっけ?」と迷うことが極端に減るので、スムーズにやることができたし、時間に追われるストレスも軽減した。

 

ついでに気になっていた新聞記事やテレビの感想も手帳に書き出す時間ができて、思考のネタに(これも朝書き出したこと)。

財布に溜まっていたレシート類も今年に入ってからつけ始めた手書きの家計簿に転機してスッキリ。

 

私にとってはとてもいいことづくめだったので、毎朝やること&やりたいことリストを作ろうと決めた。

(いままでも時々はやっていたけど、ルーティンにするということ)

 

「書き出す」ことで、覚えておかなきゃというプレッシャーから解放され、ぼんやりしてフレームが細分化され、やることが明確になる。

後回しにしていることって、ぼやっとしていて何から手をつけていいか迷うことが多い。

やることが決まっていれば、あとは手足を動かすだけということが多い。

やれなかったこともわかるし、振り返ることもできる。

数か月ずっと先延ばしにしていたことに反省する項目も出てくるだろうけど…。

 

あと、4月の終わりの今日は、今月の振り返りと来月の目標を書き出す時間をブロックした。

節目節目で振り返り、未来に目を向ける時間が自分を成長させると信じて。

ただし、あくまで人とは比べない。自分史上最高を目指す。

でも、独りよがりになっていないか、ときどきは比較も必要。

 

金華山黄金山神社は「三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはない」という言い伝えがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/金華山_(宮城県)

ダブルタッチと空踏み

在宅勤務ができるのはありがたいが、、、

学校に行かなくなってもうすぐ2ヶ月の小学生と、先週から休園になった保育園児のこども二人を抱えてのWork from Homeは正直キツい。

宿題よりも趣味の工作とドラマ鑑賞に浸りたがる小学生のケツを叩き(実際に叩くのではなくそのように言葉で伝えるという意味ですよ、念のため)、

保育園児にも勉強もどきのワークをさせつつ、

三食作って、買い出し行って、

合間で掃除洗濯してって…

何の修行??

と思っていたところ。

 

救いの神が。

 

それは、

 

ドリブルデザイナー、オカベさんの動画。

https://youtu.be/PthvjKl0_To

 

昨シーズンは、本大会の決勝リーグ進出を逃した所属フットサルチーム。

自分自身は大会前に練習試合で相手プレーヤーと接触し左足を痛めたせいもあり、

ちょっとフットサルから気持ちが遠くなりつつあったのだけど。

 

YouTubeでドリブルデザイナー、オカベさんの家でできる練習動画を見て、

ちょっとやる気に。

 

ダブルタッチ…見ているだけなら簡単そうなんだけど、やってみると難しい。

全然足がボールにくっつかない。

 

さらに、空踏み。

…言ってることはわかるけど、体がついていかないよー。

 

三つ目は…スミマセン、今日はパス。明日また挑戦します。

 

…と格闘すること約10分。

体がポカポカに。

運動不足解消に最適でした。

 

なにより、これやったら10分間で1500回ボールに触れるっていう、隙間時間でトレーニングできるところが、働く母にとってはいい。

 

スポーツって(スポーツに限らず?)基礎的なことができてないとなかなか次のステップには進めない。

地道にやること。

でも、できないことができるようになるって、楽しいし、わくわくする。

もう人と比べても仕方ないので、自分史上のメモリで計測していくことにします。

 

果たして上達具合やいかに?

1円切手を探して

1円切手を買うために何軒もコンビニをはしごした話。

 

数週間前の週末、上の子の通信教育の課題と下の子の懸賞はがきを出すことになり、家にある切手を確認したら、

通信教育の課題(封書)は2円分、懸賞はがきは1円分の切手が足りなかった。

そのため、近所のコンビニに買いに行ったのだが・・・

最初のコンビニで2円切手は買えた。しかし、1円切手は取り扱ってなかった。

2軒目も1円切手はなかった。

3,4軒目も取扱いがなく。

最後に行ったコンビニでは切手の取扱い最低金額は10円ということだった。

確かに、1円切手を取り扱っても(おそらく)利益は薄いし、オペレーションが煩雑になる(低額でも金券の一種)ので、コンビニ側からみてメリットはないのだろう。

これも時代の流れかもしれない。

 

結局、月曜日に郵便局に買いに行った。

 

うちの近所のコンビニでは1円切手は買えない、ということが分かってよかった。

地下鉄の開いた窓の外を想像する

コロナウィルス感染防止のため、最近ずっと地下鉄の窓が開いている。

上京してから約四半世紀、地下鉄の窓は基本、閉まっているものだったので、なんだか不思議。

 

今週は銀座線に乗る機会があって、青山一丁目や外苑前の駅名を聞いたとき、私の脳内である妄想が膨らんでしまった。

 

コロナウイルスがまだ対岸の火事のような感覚だった2月、私は村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んでいた。

そのあるシーンを思い出したのだ。

計算士の30台半ばの主人公(男性)が太った17歳の女の子とやみくろの恐怖と闘いながら東京の地下(一部、地下鉄の線路)から地上に向かうというもの。

 出口は青山一丁目だったか表参道だったか。

 

いま自分が乗っている地下鉄の外に、その二人がいるのではないかと想像してしまったのだ。

 

ありえないというのは簡単だけど、あるかもしれないと思えば、少しは気がまぎれる。

もともと日本社会は男性上位で働く女性にとっては閉塞感にあふれていたが、新型コロナで外出自粛と言われて、社会全体が閉塞感と恐怖で満ち溢れてしまった。

(一部の人は全く緊張感がないようにも思えるが…)

 

ちなみに、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は1985年に出版されたが、

いまから35年前に発売されたとは思えないくらい自然に読めた。

全然古くなくて、2020年にもありそうな話。

主人公がビールを飲んで、そのあと車を運転することを除いては。

3月の雪と母~1Q95 to 2020

2020年3月の最後の日曜日に雪が降った。

私が上京した1995年の最後の日曜日も朝から雪が降っていた。

どうして覚えているかというと、前の週の半ばに単身上京した私の身の回りの品をそろえるために

母が上京してくれた日だったからだ。

夜行バスで早朝にターミナル駅に着いた後、タクシーで私のアパートの最寄りの駅に来てくれた。

雪が降って薄暗い朝、最寄り駅まで迎えに行くと、所在なさげに改札前で待っている母の姿をおぼろげながら覚えている。

当時の母といまの私の年齢はほぼ同じ。

自分の子供たちが地方に行って、夜行バスで現地に向かい、とんぼ返りするような体力がいまの私にあるだろうか。

No thanks…できる限りそれは避けたい。

そう考えると、あのとき来てくれた母のありがたみを身に染みて感じることができる。

 

25年前の1995年は、1月に阪神淡路大震災が起き、3月、私の状況直前に地下鉄サリン事件が起きたり、

何かと物騒な一年だった。

そんな状況でよく雪国から東京に送り出してくれたな、と思う。

何も考えていなかったのかもしれないし、下には弟妹もいたので、余裕もなかったのかもしれない。

 

25年後の2020年は、コロナウィルスの惨禍が続いている。

東京での感染者が増えたのを聞いて、週末に母が電話をくれた。

食料を送ってくれるという。

ありがたい話だ。

 

いまこうして素直に感謝できているのは、自分も母になったからにほかならない。

子供の立場で当たり前に受け取っていたことは、親が水面下でどれだけ必死でもがいてしてくれていたことか、

親になるまで実感することはなかった。

 

…と、感動的な気持ちで土曜日にドラフトを書いていたのに。

翌朝未明に下の子が胃腸炎で嘔吐。。。

病気はコロナウィルスだけではないということだ。

母として、洗濯と子供の看護に立ち向かうことになったのであった。

 

数年後、3月に雪が降ったらこのことを思い出すことがあるだろうか?